見えないけれどそこにある

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夜寝る前にひとりで歯を磨いて順番に明かりを消して布団をまっすぐになおしてから最後の読書灯を消す時だけ、自分のことを本当に正しくかわいい存在だって思える。
こんなに正しくかわいく生きてるのに、どうして誰も見てないんだよ?と思う。
ちゃんと生きてるのに。ここにいるのに。


ここのところ雨ばかり降ってほとんど家から出なくて、頭がおかしくなるかと思った。
時間はいくらでもあったのに何もできなかった。ちょっとでも思考に隙間ができると嫌な考えが入り込んでくるから、何度も見たアニメを常に流し続けた。そうじゃないと立ち上がることもできなかった。
泥みたいにただ時間が過ぎていくのを眺めてる時、自分ってこの世に何も良いことをもたらしていないなあと思う。他人に与えられるようなものが何も無いというか。存在してる意味無いなあというか。
たまに、何かを言いそびれたままここまで来てしまったんじゃないかって思う時もある。タイミングを逃してしまっただけで、本当は誰かに手渡すべき何かを持ってたんじゃないかしら。ちっぽけでくだらないことかもしれないけど、この世のはじっこをほんの少し変えることができるような何かを自分の中に持っていたんじゃないかしら。
でも、何を言いそびれたんだろう。


人と話すのが怖いというしょうもない気持ちを抱えたまま、まさかこんな年になるとは思ってなかった。どこかで劇的な出来事が起こって変われるんだと思ってた。全然そんなこと起こらなかったけど。
ささいな、でも自分が大事に思っていることを話すと、いつもその場が変なかんじになる。
たとえば、夕方でも夜でも無い、窓の外が青い時間に電気を消してぼーっとするのが好きなこと。道端で一瞬だけマスクを外すといろんな花の匂いがすること。夜寝る前に、真っ暗ななかで流れ続ける川を想像したりすること。
相手が反応に困っていたり、無理やり何かしらの笑い話に変えられてしまったりするたび、体の奥をわしづかまれてぎゅうと絞られるような気持ちになる。
いまは自分なりに他人と接する術を学んだから、相手にとって聞くメリットの無い話をすることは無くなった。当たり前のことなんだけど。
誰かに伝える意味が見つからない気持ちをどこに置いておけばいいのかだけがわからない。


去年の今頃は、毎朝山の写真を撮っていた。小さくて低い山で、人生ゲームのボードにぽんと置かれるおもちゃの山みたいだった。有名な山々が神様なら、わたしの山には妖怪みたいな身近な存在感があった。
雨が上がった朝には陽が当たって白い霧をもくもくと出すところが見れたし、よく晴れた日には雲の影が山の斜面を横切っていくのがよく見えた。
山は毎朝違っていた。一日も同じであることが無かった。山の写真を並べて、その細かな違いを見比べるのが好きだった。
半年に一度くらい、まだ外が暗い早朝に起きることがあって、真っ暗な中でも山の写真を撮った。なんにも映らないけど、見えなくても山がちゃんとそこにあって、ずっと変わり続けていて、わたしの知らない表情をしているだろうってことを想像した。
誰も見ていないところでもちゃんと存在して刻々と変わっていくことが嬉しかった。いまだって嬉しい。


昔、短期間だけ乳幼児向けの教室で働いていて、「赤ちゃんのための窓を開けてください」と言われたことがある。
わたしはその時授業で使うものを工作していた。筒状のダンボールにストラップが通してあって、子供が紐を引っ張ると、筒の中から紐の先にくくりつけられた鈴が出てくるというもの。すごく単純な仕掛けだけど、0〜1歳の子供はそれを見るとけっこう喜ぶ。どうやら「自分が紐を引っ張ると、鈴が現れる」ということを確認して喜んでいるらしかった。他にも教室のいろんな場所に同じようなストラップを仕掛けてあって、子供がそれを発見する様子を見守りながら、親向けに乳幼児の認知と発達について解説するという授業だった。
「窓を開けてください」と言ったのは骨折した腕を三角巾で吊ったある社員だった。
「この筒にですか?」
「そうそう。このままだと赤ちゃんは筒の中に鈴があるってわからないんですよ。赤ちゃんは見えないけれどそこにあるってことがわからないので」
子供の知的発達を四つの段階に分けたピアジェの発生的認識論において、0〜2歳の発達段階の特徴として「対象の永続性」というものがある。生まれたばかりの子供は、目の前にあったおもちゃが布をかけられて見えなくなると、おもちゃが無くなったと思って興味を失ってしまう。見えないけれどそこにあるということがわからないからだ。発達の過程で、布をかけられて見えなくなってもおもちゃがまだそこにあるということを認識できるようになっていく。「対象の永続性」を理解できるようになる。
結局、筒には三つの窓を開けることにした。筒状の段ボールを切り抜くのにはけっこう苦労した。
授業で、子供たちは紐を引っ張って、窓の中を鈴が動いていくのを眺め、筒から出てくると喜んだり真顔のままだったりした。
わたしは骨折した社員のヘルプ要員として呼ばれただけだったから、彼の骨折が治ると同時にその仕事を辞めた。


見えないけれどそこにあるというのは、目に見えないものを信じることなんだと思う。
音信不通の友人がいまどこでどうしているかわからないけど、どこかで元気に暮らしていてほしいなと思う。元気じゃなくてもいいし、彼女の生活に楽しいことも悲しいことも起こることを想像すると嬉しい。彼女の生活がどこかで続いていくことが嬉しい。
引っ越して遠くにいても山が変わらずそこにあること、朝の七時にあちこちでいっせいに鳴る目覚ましのこと、誰にも語られないままの思い出のことを想像する。たまに。


昨日は久しぶりに晴れたから布団を干してシーツを洗って掃除機もかけた。それから窓際で日差しを味わった。日光で顔の表面がじんわり温まるのを感じた。
ごみを捨てに外に出たら午前中の良い匂いがした。光がちょっと春だった。ひとりだったから誰にもこの光を共有できないけど、ここに書いておく。